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レニングラードに一泊し、再びシベリア鉄道10日間の帰路についた。帰りも往路同様、駅毎の歓送陣が、今度は涙ながらに見送ってくれた。
シベリアは、僅か1月の間に景色を一変させ、早くも秋色に満ちていた。
再びナホトカの埠頭、モジャイスキーの艦上に立ち、社会主義の故郷に別れを告げる時が来た。アメリカ帝国主義が支配する祖国、その解放の戦いの真っ只中に帰って行く。
埠頭で別れを惜しんでくれる人々の群れに向かって、私は絶叫した。
“ダスビダーニャ!ダスビダーニャ!”(さようなら!さようなら!)
社会主義の故郷よ!同志たち・兄弟たちよ!
恐らく、再び合い見ることはあるまい。 |
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モスクワの市営バスの中で、英語で話しかけてきたロシア青年がいた。日本代表に会いたかったと言う。
その話によれば、父はゲー・ぺー・ウー(ソ連憲兵隊)の将校として、戦後しばらく大連にいたのだか、たまたま母が急病で困っていた時に、お手伝いをしてくれた日本人の娘さんが、とても親切にしてくれたのを母は忘れられず、彼女の帰国後、度々手紙を出すのだが返事がない。彼女の身の上に何かあったのではないかと心配している。もしできれば、彼女の行方を捜してくれないかと言う事だった。女性の写真と、モスクワでの自分たち家族の住所・氏名、彼女が書き残して行った日本の住所・氏名を、予め紙に書いてあったのを示しての事だったので、真実味のある話だと私は思った。 |
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