前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第十三話 日本代表としてモスクワへ
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空前絶後の大代表団派遣を勝ち取る

 政府は、これほど多数の代表団が共産圏に赴くのは、国策上好ましくないとして、当初、旅券発行を拒否。数次の団体交渉で、国交回復したソ連への渡航を制限する法的根拠は乏しいと認めさせたが、残念ながら時間的な制約もあり、150名で妥結した。

 神奈川では、県青年団協議会、社会党県連青年部、横須賀生協、横須賀県職、朝日新聞労組の代表、それに民青代表の私の計6名をノミネートしていたのを、中央実行委員会と外務省の交渉の結果で、2名に絞らざるを得なくなった。
 
 県実行委員会は夜を徹しての論議で、横須賀県職青年部長(社会党横須賀支部青年部長)と私の2人を選ぶことに決したのだが、これは出発前10日の時点の事。この時まで運動の中心的な役割を担ってきた民青県委員長の私を代表に加えるのは自然の成行きだったが、問題は単純ではなかった。

 第十二話で述べたように、この当時、民青は背後に大きな問題を抱えていたのに加えて、僅かな日数で今まで扱った事のないような多額の参加費をカンパで集めなければならないと言うのは、不可能に近い事だった。
 だが、運動の流れとしては後には退けなかった。問題を抱えながらも、とにもかくにもモスクワ行きの準備を、急遽進めなければならない事になった。