|
|
この頃、私の隣の兵が「T先生はスパイではないか、どうもおかしい」と私の耳にそっと囁いた。
T教授は、同じ機関銃中隊に配属していた若いドイツ語の教師。度の強い眼鏡を掛け、いつも不服そうに口を尖らせ、向こう気が強そうに足早に歩く、あまり好感の持てる人柄ではなかった。軍隊では同じ二等兵の身分だが、別扱いで専門に中隊の事務を担当し、我々と顔を合わせる機会も殆どなかった。
私は、人目を盗んで事務室に忍び込んだ。先生の机の引き出しを開けると、大学ノートの日記が見つかった。急いでページをめくると「哀れなる日本国民よ、敗戦の日はもう近いであろう」と言う字が目に入った。私は慌ててその部屋を飛び出した。見てはならぬものを見たと言う恐れと、底知れぬ不安と、訳の判らぬ憤りで胸は割れるようだった。
|
|
|
書かれていたその文字の意味を考える力は私にはなかった。唯それは、高踏的と言うか第三者的と言うべきか、誰もが血の滲む思いで戦っていると言うのに、自分だけ判った風な態度が、無性に腹立たしかった。私は、漸くの思いで自分独りの胸に納め、この事を誰にも喋らなかったが、もしこれが本物のゾル(ドイツ語のゾルダーツの略・当時の学生の隠語で軍人の事)に知られたら、この先生の命はなかったのではないかと思う。
今にして思えば、この教授のいつもの重苦しく近寄り難いような顔つきは、考える力をもち先を読む事が出来たインテリゲンチャの、耐え難い苦悩の表情だったのであろう。
事実、戦争はもう最終段階に来ていた。 |
|
|