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この年の初め、もはや海空共に圧倒的な優勢を確保した米軍の大船団が、次の目標を求めて接近していた。
米軍の最高司令部では、一挙に本土上陸作戦を敢行するか、あるいは比島から島伝いに台湾・沖縄・本土の順で進むか、ハワイで最後の作戦会議を開いたそうであったが、結論としては沖縄が攻撃目標とされ、あの悲惨な、老若男女30余万人(戦闘員10万・市民20万)の生命を奪った沖縄戦が展開されたのであった。
もし、沖縄でなく台湾が攻撃目標とされていたら、沖縄の悲劇は、我々の運命であっただろう。
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台湾軍司令部は、米軍が沖縄に来るか台湾に来るかの判断を誤り、沖縄から最精鋭部隊を台湾に移動させ、台湾で米軍を迎え撃つ構えをとった。
3月はじめ、「戒厳令」が発せられ、台湾全島を「戦地」と布告、全島民が軍命令に服する事になった。小学校から大学まで学校は総て閉鎖され、最小限の要員を残して、行政機関の総ても市民も、急ぎ山間部に疎開。
同時に、満14歳以上の男子全員に召集令が発せられた。実際には、学校単位に部隊が編成されたので、年齢を問わず、中学三年生以上の全員が教師共々、徴兵され入隊する事になったようであった。いがぐり頭の少年も年配の教授も同じ二等兵の肩章を付けさせられた。
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