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3月20日、台北高校全員は台湾独立混成第66師団第13862部隊に編入され、軍事教練用の小銃と帯剣を分け持ち、夫々の任地に向かって校門を後にした。
配属将校が部隊長と言う事であったが、中隊長、小隊長それに若干の下士官が軍司令部から配属になり、指揮に当たった。
私は、体格が良い方だったので特別編成の機関銃中隊に配せられた。特別と言うのは、正規の歩兵の編成並みに、一個分隊ごとに重機関銃を装備した編成だったと言う事。
我々以外の学徒兵は、一個分隊に小銃が一丁か二丁で、帯剣も殆ど行き渡らなかった。いざとなれば、爆薬を抱えて敵戦車に体当たり(今言う自爆攻撃)する想定であった。服装は、全員が軍隊用語の「袴下:こした」に「襦袢:じゅはん」つまり下着だけの姿であった。
台北高校の部隊は、台北周辺の七星山、観音山、淡水、桃園に分散配置され、吾が機関銃中隊は、桃園台地にあつた特攻基地の守備に当てられた。
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今は、素晴らしい国際空港に生まれ変わっていて当時を偲ぶものは何もない。台北盆地の南を区切る、ここ桃園は見渡す限りの赤土の台地、所々に貧弱な茶畑があり、想思樹の林がショボショボと立っているだけ、陽光を遮るものはなかった。
台地の北のはずれに、そこだけ雑木の茂みに覆われた幅1メートルばかりの小川があり、兵舎はその小川に沿って点々と建てられた。
我々の任務は、飛行場の西側、海岸線に沿って戦車壕を掘る事だった。壕は、幅5メートル深さ5メートル程、延長は何キロになるか延々と続く。
強烈な日差しの下で、来る日も来る日も、鶴嘴とシャベルで赤土に挑み、モッコを担いだ。
食事は、毎食ドロドロの雑炊が飯盒の底に1センチ程、忽ち栄養失調に陥り、体力の極限を行く労働で、口を利くのも億劫であった。
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