前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第十四話 台湾軍に編入される(10
 
吾が出生の地「汐止街」が死地に


 沖縄はすでに制圧されていた。指呼の間にある台湾には、何時上陸作戦が開始されるか知れぬ形勢だった。7月はじめ我々は桃園を後にして、次の任地に向かう事になった。
 その途中1週間、母校に駐屯する事になった。皆、小躍りして喜んだ。懐かしの母校の校舎は、窓ガラスがあちこち割れた他は無事であった。しかし、七星寮の門に駆け込んだ私の目に映じたものは、余りにも変わり果てたその姿だった。数ヶ月前、大太鼓を打ち鳴らし、夕空に寮歌を放詠した寮庭は、膝を没する雑草に覆われ、汚れ果てた中庭の池に、けなげにも小さな顔をのぞかせていた睡蓮の花の、そのいたいけな白さが目に染みて今なお忘れえぬ。

 この1週間我々は生き返ったようだった。皆、寮庭の草刈清掃に嬉々として取り組んだ。

 
入隊前、寮の炊事委員をしていた私は炊事班長に任ぜられ、毎食たっぷりと豚肉の入った混ぜ飯を大釜一杯に作り、この時ばかりは皆腹一杯食べて忽ち体力を取り戻した。

  次の任地は、正に奇しき縁と言う外ないのだが、私の誕生の地「汐止」であった。私は「昭和2年12月18日台湾台北州七星郡汐止街保長坑渓洲寮9番地で出生」と戸籍には書かれている。五堵駅に近い教員宿舎だったそうだ。その出生の地が死地となる筈であった。

  ここ汐止は、台湾北端の基隆港から台北に至る要路の中間地点、もし米軍が上陸し台北目指して侵攻して来るとすれば、1時間以内に玉砕すべき部署だ。
  この要地の守備に当てられたのは、我々学徒兵だけ。正規軍は台湾山脈深く戦力を温存し、敵に最大限の消耗戦を強いる作戦だったのであろう。付近一帯には全くその姿を見なかった。