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私が、どうしても高校に行きたいと言うと、母は悲しげな顔で「医専に行けば良いのに」と言い、それでも最終的には「それでは自分で頑張るのだよ」と言ってくれました。 父母は、家計のやり繰りについては子供たちには絶対に聞かせない主義でしたが、戦時下の苦しい家計の中、長男を内地の大学にやり、次男までもと言うのは、母としても思い余る事だっただろうと察せられます。 それでも、台北一中にいれば楽々高校に進める成績であったのに、台湾でも一番の田舎の中学に転校して、中位の成績の生徒が行く専門学校を選ぶのは如何にも悔しかった。 |
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