前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第十二話 台北一中から花蓮港中学へ転校(
 
 それだけに花蓮港は、人跡まれな「桃源境」とも呼ぶべき別天地、メルヘンの世界でした。
市街から離れた台地にあったアルミ会社の社宅からは、朝、雨戸を開けると、眼下一望さえぎる物ない太平洋が広がっていました。断崖の下に見える築港の防波堤に打ち寄せる波は、十数メートルも躍り上がって勇壮そのもの。
 中学へ往復する途中の台地には、純白大輪の百合の花が一面に咲き、踏みしめる足元の道は、鮮やかな青や白、時にピンクの混じる玉砂利を敷き詰めた如く、悠然として草を食む放牧の水牛の背には白鷺が舞い、時折、流れ来る高砂族の牧童の歌声、仰ぎ見る台湾山脈の山々は紫に煙り、正に桃源に遊ぶ想いでした。

 花蓮港には、台湾には珍しい移民村があって、内地から来た人々が内地の農村そのままに、かすりのモンペに菅笠姿で、農業に従事していました。
 
 中学の同僚の多くは、その農村の子弟で、官吏や銀行家や中流以上の家庭の如何にも都会的な台北の中学生とは、人種を異にしていました。
体つきからして異なっていました。まだ中学生だと言うのに、どの子も、腰も肩もガッシリと太く、顔つきさえももう大人でした。台北の子供たちのように休み時間にもキャアキャア騒ぐ事もなく、素朴で寡黙で鈍重な事、水牛を思わせました。それが軍事教練や作業の時間には、全く逞しく頼もしかった。

 しかし、学科の時間には、正しく牛の如く皆大人しかった。その水準は、覚悟していた事とは言え、生徒ばかりでなく先生さえも台北一中とは比べ物にはなりませんでした。少し難しい質問を出されると、私以外には手を上げる者はいません。「また長崎だけか、しようがねえな、ほかに分かる奴はいないのか」と舌打ちしながら私を指す先生の表情も半ば投げやりでした。