前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第二話 引揚後の郷里での苦闘の日々(10)
 
想像にあまる母の労苦
 母こそ、どれほど泣きたい想いを噛みしめていたか知れなかった。
 戦時、空襲や疎開の苦労も確かに大変だったろうが、それはまだしもであった。みんな一丸になって耐えていたのだし、学校の先生、後に課長夫人として、地位も生活も保障されていた。しかし、引揚後の現実こそ本当の戦争であった。しかも、この戦争では誰にも頼る事が出来なかった。心の支えもなかった。この先どうなるのか、明日の事も知れなかった。
 在台時、病気がちだった母には、考えもつかなかった行商などと言う姿になって、その日その日の一家の生活を立てねばならなかった。今日一日、売上がなかったら、家には食べる米がなかった。
 
「女が毎日家を空けて、どう言う気だ」と姑が・・・
 足を引きづって暗くなって家に帰りつくと、「今頃まで何処に行ってた。女が毎日出歩いてどう言う気だばい」と姑が言った。
 祖母は、長崎の家に嫁いで以来、金の苦労と言うものを全く知らずに来たと言う。永年、十全村の助役を勤めていた祖父の給料は、それほど高くはなかっただろうと思うのだが、官尊民卑の時代でもあり、少しばかりの小作地もあったようで「長崎様、助役様」と呼ばれ、士族の端くれとしての見識だけは高かった。そんな祖母にとって女が働きに出る事など考えも及ばなかった。まして、行商に歩くなど家の恥以外の何ものでもないとの観念であったから、祖父母の手前、母は隠れるようにして出掛けねばならなかった。