前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第二話 引揚後の郷里での苦闘の日々(10)
 
「遺憾ながら・・・」と

 面接試験後2ヶ月余も経った7月中旬「遺憾ながら貴君の希望には添えない事になりました」と言う短い手紙を受け取った。余りにもあっけない結末であった。
 後で聞いたところによれば、新潟高校は、文部省の要請にも拘らず、海外からの引揚学生を一人も受容れなかったという事だった。最初から入れる気はなかったのだ。
 私を試験した、あの生白い柔和げな教授たちの顔つき、松林にマントを翻していた高校生の他人事のような後姿が、抑えがたい憤りとなって私の脳裏に浮かび上がった。あいつらは何だというのだ。私がなめてきた苦労の万分の1でも分るか。

 
あいつらが戦争など何処吹く風と勉強してこれた間に、同じ高校生が海外でどんな体験を経てきたか、少しでも考えた事があるのか。何も知らない奴らに私を試験する資格などある筈はない。
 あの戦時中の過酷な条件下でも、戦後の混乱期にあっても、台北高校の同窓は皆、学徒たる誇りを瞬時も忘れず寸暇を惜しんで勉強した。その成績だって、私は何時も第一分隊に属していた。(軍国主義を反映して、40人中10番以内の成績を当時そんな風に呼んでいた)内地の連中に決して負けない実力は持っていた筈だ。
 現に面接試験の際のドイツ語の童話などスラスラと読んで訳す事が出来た、不採用とする理由はなかったではないか。
 怒りの後には、耐え難い屈辱、そして底知れぬ絶望感が襲ってきて、目の前には何も見えなかった。