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その風光も、港に入るや否や一変した。鹿児島港は廃墟であった。焼け野が原であった。その廃墟に立つトタン葺きのバラックも、道も、焼け残った街路樹も、目にするすべてが、桜島の噴煙をかぶって灰一色だった。
埠頭で、婦人会の人たちから握り飯の接待を受けた。幾日振りかで見る白い御飯にむしゃぶりつく私たちに、接待の人が「内地ではもうこんな御飯は食べられませんよ」と言った。 |
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高雄港では、荷物の積み込みを現地の人たちがやってくれたのに、ここでは引揚者自身が自分たちで荷役をやらねばならなかった。若い元気な者が狩り出されて、柳行李や布団袋などを船倉からウインチで運び出し、鉄道の貨車までは肩に担いで運ぶ作業を、過酷な船旅に耐えてきた身体で、1時間余りもやらされた。
喉がカラカラになって、ようやく道端に水道の蛇口を見つけ、焼け跡に立つ人に「この水飲んでも良いですか」と聞いて見たが、その返事の言葉が全く通じない。これが内地引揚げの第一歩であった。 |
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