前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第五話 朝鮮戦争勃発を前に、コミンフォルムの重大干渉に直面()
 
 中野地区党の臨時の代表者会議が開催され、4〜50名も集まっていただろうか、真剣な眼差しの同志たちを前にして、これも深刻な表情の地区委員長が、問題の経過を説明し、出席者の意見を求めた。
 しかし、沈黙が支配し、発言する者は殆どなかった。私は、挙手し立ち上がって発言した。「党内で意見の相違が生じた場合、これを党外に持ち出すと言う事は、党規約が厳重に戒めた分派活動、党を分裂させ団結を破壊する最も忌むべき規律違反ではないか。私は志賀意見書の内容を知らないが、その内容の如何に拘わらず規律違反は規律違反として厳重に処分すべきではないか」と。
 地区委員長は、沈痛な面持ちで「慎重に検討したい」と述べるに留まった。
 私は不満であった。
 
中野・杉並から東京東部へ

 4月、私は東京東部地区へ転任を命ぜられた。日本民主青年団のオルグとして中野に派遣されて僅か1年の事である。中野で私は、たくさんの貴重な経験をしたし、何人もの別れ難い同志も生れた。
 辛い別離であったが個人的な感傷を許さない情勢の厳しさがあった。

 5月30日には、日比谷で開かれた「民主民族戦線東京人民大会」で、当時、民青団東京中部地区委員長をしていた同志Mはじめ8名の青年が、MP(米憲兵)に逮捕され軍事裁判に掛けられると言う事件が起きた。