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とるものもとりあえず、私はジュハンにコシタの兵隊の服装のままリュックをかつぎ、母からの最後の手紙にあったアルミ会社の家族の疎開先「六亀」を目指した。
記憶を辿れば、「六亀」は、縦貫鉄道の本線から高雄に近い分岐点で支線(あるいは製糖会社の貨物線か?)に入り、その終点「虎尾」から更に台湾山脈の山懐深く入った奥地だ。
「虎尾」に着いた時には、日はとっぷりと暮れていた。折悪しく、その夜は星ひとつ見えぬ暗黒だった。此処から先はバスもなく歩くほかないと言う。
駅で聞いた一本道を進む。両側は田畑ばかり、はるかに点在する民家の灯も間もなく視野から消えて、緩やかに起伏しながら道は山懐に近づく。 |
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どれほど歩いただろうか?道は大きなトンネルに入り、中はそれこそ一寸先も見えぬ。さすがに困って立ち止まっていると、運良く数人の台湾人の一団が、松明をつけて歩いて来た。私は辛うじて、その後について、4〜50メートルもあっただろうかトンネルを抜けることが出来た。
それにしてもあたりは真っ暗。全くの未知の土地だ。幾度も脇道に入って台湾人の農家の戸を叩き、犬に吠えられながら道を尋ねた。
我ながらよくも尋ね当てたものだと思うのだが、母たちの疎開先に辿り着いたのは深更2時か3時頃だったと思う。
それは丸太を組み竹と茅で屋根を葺いた掘建て小屋だった。日本人の女と子供ばかり数十人が隠れるようにして、そこに棲んでいた。 |
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