前代表社員長崎真人自分史
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 【第一部】第四話「怖かった「土匪」虐殺の跡」(
 
婦女子まで銃を取り台湾全島を血に染めた必死の抵抗

 台湾接受の全権委員に任ぜられた、初代台湾総督・海軍大将樺山資紀の目論見では、清国側の全権の到着を待って、これを伴い、近衛師団を率いて威武堂々基隆港から上陸し、台北で盛大な式典を挙げて、台湾の日本帝国領有を内外に宣言するつもりでした。
 ところが、この目論見は最初から崩れた。先ず、遅れて汽船で到着した清国側全権李経芳は、島内は割譲に激怒し大混乱で、とても上陸できる状況ではないと、日本側に船上で書類を渡すや、あたふたと姿を消してしまった。
 樺山が政府に送った上申書でも「接受は完了せりと言えども、本島の形勢はあたかも一敵国の如く、今後幾多の戦闘あるを免れず、実際の状況は「外征」におけるに異なることなし」と書かれている。

 



 「澳底」上陸が5月29日、基隆占領が6月3日、総督の台北入城は13日の事であった。それでも台北までの進軍は、まだましであった。台北から南に下るのは、全く先の読めぬゲリラとの戦いであった。大隊単位での行軍に対しては抵抗なく、小人数の隊伍と見るや忽ち攻撃、あるいは輜重を襲う。
 「右は全く土匪の仕業ゆえ沿道の住民の良否判明せざるにつき、残酷ながら一網打尽よりほか方法これなく」「婦人まで銃を取り来たれる」「当地の土兵は、死を恐れざる一種の気風あり、過日10数名の斬首の刑あり傍観致し候ところ、彼らは一向に恐怖の模様なく、悠々たる姿勢、敵ながら感服」と樺山総督秘書樺山資英が郷里に書き送っている。(「台湾軍司令部」古野直也著より引用)