前代表社員長崎真人自分史
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 【第一部】第四話「怖かった「土匪」虐殺の跡」(
 
 「双渓」は、基隆から宜蘭線で南東に下り七つ目の駅、映画「悲情都市」で有名になった「九分(正しくは人偏に分)」「金瓜石」の南隣になる。日本の台湾征討軍が最初に上陸した「澳底」の海岸からは10キロ足らず、小さな平地を西に進み、台湾北部の山地にかかる入口にあり、名前のとおり二つの川の合流点に位置する要衝と言って良い土地柄。
  「御遺跡所」と言うのは、その征討軍の総司令官だった北白川能久親王が、上陸して最初に駐屯した跡と言うわけで、双渓川を見下ろす丘の上に、記念の石碑が立っていました。


 私たちが住んだのは、その丘の南向きの斜面を切り開いた赤土の台地にあった2軒の官舎のひとつでした。

 
 父は、公学校訓導に、現地青年の指導に当たる青年教習所指導員を兼務し、寸暇を惜しみ情熱的に活動しました。冒頭の「双渓音頭」を作って、日本人も台湾人も一緒にして盆踊りをやらせたり、台湾人青年団の男女を指導して音楽劇をやったりして、その音楽劇が台北放送局の始まったばかりのラジオ放送に取上げられて、台北まで出演しに行ったりしました。

 時たま、「御遺跡所」のある丘の上の公園に、父母に連れられて遊びに行きました。坂道を登りきった所に、大きな岩がありました。母はその脇を急ぎ足で通り抜けながら、「あそこには“土匪”が大勢埋められているのだよ」と小声で言う。子供心にそれは不気味で、ひたすら怖かった。
 後年、私が得た知識によれば、“土匪”にまつわる史実はこうであった。