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第二部で書いたように、新潟の田舎に引揚げて来た当時の暮らしは、正に地獄だった。すべてを失ってきて、その後を振り返る暇もなく、その日その日の飢えを凌がねばならなかった。病身だった母が、在郷廻りの行商で一家の経済を支える事になろうとは、誰も考え付かぬ事だった。
それが、やがて日本生命に入社、どこにそんな才能が潜んでいたのか?県下一の成績を挙げて、それなりの収入も得、御褒美の招待旅行を楽しむようになった。近隣では、知らぬ者のない「ニッセイの小母さん」で、就職の世話をしたり、縁談をまとめた数も、数え切れぬほどになったと。
75歳まで、ほぼ30年間働きづめに働いた。晩年はむしろ楽しげだった。 |
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そんな母に、脳梗塞は神が与え賜うた安らぎとも言えた。失語症で、殆ど言葉にならなかったのに、「有難う」と「すみませんね」だけは不思議にハッキリ言えて、看護婦さんたちにも可愛がられた。父は一刻も離れずに看病に努めた。それは本当に父の生甲斐であるかのようだった。 |
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