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日本共産党第六回全国協議会(略称「六全協」)が開かれたのは、1955年7月。この前年3月ソ連共産党書記長スターリンが死去。続いて同年10月、戦後日本共産党の最高指導者だった書記長徳田球一が北京で客死した。
第一線で活動していた我々には、全く知り得ない事だったが、後に「多数派分派」と呼ばれる事になる我々が属したグループの指導部と、宮本顕治氏ら排除されていた中央幹部との話し合いが進行していた。 |
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その結実が「六全協」。これが「50年問題」と言われる深刻な党内問題を処理し、その上で現在に続く自主独立の新しい党の建設に進む第一歩であった。
提起された問題は、革命の基本戦略に関わる事、それも世界史的に全く新しい路線を目指し、レーニン以来の科学的社会主義の理論を総ざらいするような内容を持った議論であった。単純化して言えば「左翼冒険主義」から「多数者革命」への転換と言う事になるのだが、問題はそれほど単純ではなかった。 |
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