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世界青年学生平和友好祭は、1947年プラハを第1回とし、2年毎に東欧諸国を開催地として開かれ、1957年のモスクワ祭典が第6回で、ソビエト革命40周年にあたっていた。
それまで日本代表は、政府の渡航許可を得られず少数の非合法的参加を余儀なくされていたのだが、ビキニ以来の平和運動の盛り上がりもあり、曲がりなりにも講和発効と言う条件の変化もあって、初めての合法的な参加であるモスクワ祭典には、全国から200名の大代表団を送る事になり、各地でこれを目指すいろいろなイベントが積み重ねられた。
神奈川では、前記の「神奈川県青年学生平和友好祭」のほかに、世界民青連の訪日代表の歓迎集会、鎌倉由比ガ浜での「海の平和祭」、山中湖での「山の祭典」、保土ヶ谷グランドでの平和祭典等々、多彩な取組みが行われた。
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モスクワ祭典には、中央実行委員会から神奈川県に2名の代表が割り当てられた。これに、横須賀市職労組青年部長、社会党県連青年部長、藤沢の平和団体代表が強く参加を希望し、中々まとまらなかった。
私は、県民青を代表し、選考委員会を取り仕切る立場にいた。先ず藤沢の代表(後の藤沢市長)には、県下の平和運動に対する参画の日が浅いことを挙げて辞退方説得。横須賀代表は、後に社会党選出の神奈川県議になる人物で、もしこの人と社会党青年部長との2人を代表とすれば、この時まで県下青年運動の中核的役割を果たしてきた民青の団員たちの献身的な努力に水を差すことにならないかと私は考えた。 |
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