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民青団は、世間では共産党の下部組織と見られていたし、これらの労組組織は、レッドパージで壊滅的打撃を受けた産別会議に替わって、労働運動の主導権を握った、社民系の組織と認識されていたものだった。
だが反応は予想外だった。影響力の大きい地評の青年部を担当していた書記が極めて好意的だったのに力を得た。単組では、国鉄と横浜市職の青年部が特別熱心に応じてくれた。
社会党県本部にも申入れに行った。青年部長をしていた人物は、後に飛鳥田横浜市長の秘書、相模原市議等を勤めた生粋の社会党員だが、個人的に気が合い、この時以後永く付き合うことになった。 |
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県庁の青少年課も訪ねて、県下青年団の名簿を入手し、その全部にアンケートを送ったところ、大根村女子青年団、開成町青年団その他数箇所から賛同の返事を得た。
この当時、私が申入れに歩いた青年組織は全県下に及び、我ながら良く歩いたものだと思う。記憶洩れがあると思うが、思い出すままに以下に列記する。
また、正式な呼称ではない場合もありますが御容赦下さい。
神奈川地評、横浜地区労、鶴見地区労、川崎地区労、社会党青年部、国鉄労組、横浜市従労組、県職労組、小田原日通労組、大蔵省小田原印刷工場労組、秦野専売労組、富士フィルム足柄労組、全駐労横浜、大根村女子青年団、開成町青年団、横浜国大学生自治会。
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