前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第六話 レッドパージの嵐の中で()
 
今も懐かしい東部地区
 私がお世話になったのは、深川木場(石島町)の民青の同志のお宅だった。玄関先の3畳ほどの板敷きを提供してくれたのに煎餅布団を敷いて寝泊りした。
 2年間の東部在任中ここが宿舎兼連絡事務所となった。

 深川は江戸以来の材木の集散地で、縦横に走る堀割に丸太が浮かび、製材所の丸鋸の音が賑やかだった。
 下町一帯は、3月10日の東京大空襲で焼野が原となった所。戦後5年目だったが、まだあちこちに焼け跡が残り、建っている家も手作りのバラックと言ってよいような荒々しい風情だったが、復興の息吹は高く、日暮れ時、堀割に映える家々の明かりは、かっての江戸下町の情緒を想わせて美しかった。
 
「東京大空襲・戦災資料館」のこと
 終戦の年、3月9日深夜から10日早朝に掛けて下町一帯を襲った東京大空襲で、10万人を超える老若男女が犠牲になった。その日になると、辻つじにお線香が立てられ、町全体がその煙で咽ぶようだった。
 広島の原爆に次ぐ被害だが、公式な調査・記録は今に至って実施されず、作家の早乙女勝元氏をはじめとした民間有志の献身的な努力によって、江東区北砂1丁目(電話03-5857-5631)に「戦災資料館」が立てられているのが、唯一の貴重な資料を提供してくれるものとなっている。
 私も、建設費の何万分の1かを寄付させて頂き、記念碑の銅版に名を刻む栄誉を与えられたが、是非多くの皆さんに参観して頂きたいと思います。