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当時、私が属していた農機具部では、日本農業の将来像について、基本的な議論が交わされていた。
私の研究室は、稲刈り機の極く基礎的な研究をやり始めた段階であったが、現存の農村の狭い圃場、小さな経営規模では、機械化を図るに大きな障害があることは明らかであった。では、日本農業の将来像をどう描くのか、それなしには何をどう研究すべきか判然としない。これは農機具の研究だけでなく農業技術全体にかかわる深刻なテーマだった。
議論の根底には、終戦に至るまでの日本の農業技術が、地主制度を支える役割を果たしてきた事、それが戦争責任にまで結びつく事についての深刻な反省があった。技術者は、自分たちの研究成果が、如何なる階級の利益、如何なる政策目的に利用されるのかについて、無関心であってよいはずはない。 |
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極端な集約型の農法を貫いてきた日本農業にとって、奴隷的な苦役と言うべき労働から農民を解放する道は、一つには地主的土地所有制度の改革、今一つが機械化を中心とした技術改革を措いてない事は、異論のないところだった。
占領政策としても、財閥・軍閥と共に絶対的な天皇制権力の一翼であった地主制度の解体・農地解放が進められつつあった。しかし、創設された自作農・生れて初めて土地を手にした農民たちが、果たして、どのような道・どのような農法を選択するであろうか?研究者たちが頭に描く「機械化」なるものが農民に受容れられるであろうか?あるいは受容れられたとして、それが農民に真の幸せをもたらす事になるのかどうか?地主的労働集約型農法が否定された後に生れ出る農家経営の適正規模は?その上に築かれる農業技術の体系はどうあるべきか?日本農業がはじめてぶつかる大問題であった。 |
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