前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第十三話 憧れの台北高校へ(
 
睡生の夢破る ロッキードP38の飛来
 漸く高校生活に慣れ始めた2学期のはじめだったと思う。後に文化功労者となられた著名な万葉学者・犬養孝先生の名調子の講義に心地よく聞き入っていた、ある日の昼下がり、突然キーンと言う金属音が耳に響き、ハッとして窓を見ると、隣の校舎の屋根すれすれに、ロッキードP38、初めて見る双胴の戦闘機が、今しも飛び去っていくところ、飛行眼鏡を掛けた操縦士の顔さえハッキリと見える近さであった。大胆な単独の偵察飛行であった。

 その1月ほど後、10月初め、台北は初めての空襲を受けた。校庭に掘られた蛸壺から伸び上がってみると、数十機の敵艦載機グラマンの編隊が見事な急降下で松山飛行場(当時台北郊外にあった)を襲っていた。

 後に知った事だが、これと前後して台湾沖海戦があった。大編成の敵機動部隊が台湾東部に接近し、これを迎え撃つわが軍との間で戦端が開かれたのであった。
 
戦火一挙に迫る 台湾沖海戦の惨
 花蓮港からは肉眼で見える洋上で、彼我の艦船・航空機入り乱れての激戦で、その後数日間、海岸には無数の戦死者の遺体が打ち上げられたとか。
 そればかりか、花蓮港のアルミ会社では、空襲に加えて艦砲射撃さえ受けて、スワ敵軍上陸かと深夜山地に避難する騒ぎであったと。折悪しく父が高雄工場に転勤して不在で、姉が孤軍奮闘して武勇伝を残す事になった。
 今の二十歳前後の女性にはとても考えられない事だが、気丈な姉は、体の弱い母と幼い弟妹をかばいながら、土砂降りの雨の中、暗闇に足を取られ転んでは起き転んでは起きしながら、数キロ離れた洞窟に逃れたと言う。その上、姉は翌朝独りで無人の街にとって帰り、途中敵機の機銃掃射を浴びながら我が家に辿り着き、御飯を炊いて握り飯を作り、鶏をつぶして空揚げにして持って来たと言う。