前代表社員長崎真人自分史
目次へ 前のページへ 次のページへ
第一部】第七話 新潟の田舎へひとり里子にやられて1年余/村松藩「長崎」の先祖(
 
美しく豊かな四季の移り変わりと細やかな人情に育まれて
 村松では、祖父母も、当時まだ嫁ぐ前だった文子叔母さん(父の妹)も、それはそれは私を可愛がって下さった。親元離れ慣れない土地に来た孫に寂しい思いをさせないようにと、あれこれ気を配って下さった。春日の家(母の実家)でも月に一度は私を呼んで最大限の御馳走をして下さった。

 近所に祖母方の親戚で同年輩の子がいて、将棋やスキーや色々教えてくれた。近所の親戚3軒で回りもちで風呂を立て、交代で風呂につかり茶飲み話を交わす風習があったが、その折には、子供だけ集まって将棋をさしたり、「句会をやろう」と言って、俳句を作り発表し合ったりした。まことに優雅な事だった。私が生まれて初めて作った俳句「五月雨や雀悲しく飛んで行く」。

 台湾は、文字通り常緑で冬でも蝉が鳴いていた。それがここでは自然も人々の暮らしも、すべて、ひと時も同じではない。
 
つくし私が村松に到着したのは4月半ば過ぎだったが、祖父が私に見せたかったと庭の雪を一山残して置いてくれた。4月末、雪がすっかり解けると、一斉に花が咲き、近郷こぞって村松公園の花見に酔う。5月6月は山に入って山菜取り。
夏短い夏を惜しんで早出川(阿賀野川の支流)の水浴びに興ずる。水着などない、子供たちはみな素っ裸だ。冬支度も急がねばならぬ。夏の間に裏の小屋には壁全面に薪が積み上げられる。
きのこ実りの秋には蝗取りだ。蝗は貴重な蛋白源、羽と足をもいで佃煮にする。近くの山で茸もとれた。冬はすべてが純白の雪に覆われる。その冬は特別雪が多くて、屋根からスキーができた。表の道には、玄関から階段を付けて昇る。その道では子供たちが竹の橇やスキーに興じるので、ツルツルに光って、滑って危ない。その道を、高足駄に番傘で学校に通うのだ。