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あるいは私の下に六つ違いの妹(久美子)が生まれて、4人の子供を抱え経済的にも楽ではなかっただろうから、一時里子にと言う事だったのか。あるいは養子に出す話でもあったのだろうか。いやそれにしては、1年後、母が幼い妹を連れて迎えにきて、1月余りゆっくりと逗留して帰ったところを見ると、それほど家計が逼迫していたと言う事でもなかったようだ。
あれこれ考えてみて、これはやはり「可愛い子には旅をさせろ」と言う事だったのだろうと解釈する事にした。 |
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それにしても当時のこと、台湾と言えば、はるかな海の向こうである。水盃を酌み交わして出る旅路である。私を連れて行く役目の伊部さんにしても20歳になるかならぬかの若者に過ぎない。その間柄も、母が懇意にしていたと言っても、呉服屋の番頭と客の間柄で、同県人だと言う事で多少贔屓にしていたと言うくらいの事、私には初めて見る顔だった。村松の祖母が「たまげたこんだて」と言うのももっともだった。
そのときの船は「富士丸」と言って、内台航路に就航したばかりの1万トン級の新鋭だった。ペンキの臭う真新しい船室に落ち着く間もなく、ボーイさんが呼びに来て、私は独り事務長の部屋に連れて行かれた。 |
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