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その2年後には、同じ炭鉱地帯の五堵公学校の友蚋分教場の主任を命ぜられました。五堵は一帯の中心的な石炭の集積地で、基隆から台北に至る縦貫鉄道の駅がありました。友蚋炭鉱は、五堵から台車で30分ほど山地へ入った炭鉱部落で、父は、五堵駅近くの宿舎から台車で通いました。 台車と言うのは、今はもうなくなったようですが、当時の台湾の地方交通には欠かせなかった、人力の軽便鉄道(トロッコ)で、石炭も人間も何でも運びました。五堵駅周辺は、友蚋炭鉱から台車で運ばれてくる石炭の山で真っ黒でした。 分教場は、全校33人。これを父ともう一人台湾人の教員と2名で担当しました。父は、「友蚋の校長先生」と部落の人達に呼ばれ、その責任を果たすのに夢中でした。 |