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父が、乗った「笠戸丸」は、当時、第一回ブラジル移民船として有名な船でした。元は、ロシアの病院船だったのを日露戦争で日本海軍が拿捕し、移民船に改造した、そのまた初めは、南米航路用にイギリスで造られた貨客船だと言います。6千トン余、10ノットの低速ながら長距離航行に堪えるのが長所。船底の貨物室を、蚕棚のように2段に仕切って、1000人の移民を収容できるようにした、奴隷船より幾分マシと言う程度の船。それでも、これが内台航路(神戸―門司―基隆)の新鋭でした。
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門司を出ると間もなく音に聞こえた玄界灘です。5月は、南シナ海を次々に低気圧が通過する季節。たちまち暴風雨に見舞われ、猛烈な揺れで3等船室の若夫婦と幼子は、座ってさえ居れない。横倒しであっちの壁こっちの壁に頭をぶっつけ生きた心地もない。深夜、少し揺れが収まった甲板に出てみた父の耳に、真っ暗な海面から、かすかに聞こえる「オーイ笠戸丸、助けてくれ」と言う声。漁船であろう、シケで航行の自由を失ったのであろうか、声はすれども、姿は見えず。見殺しにする以外になかったか?笠戸丸自身が必死の航行で救助の手まで及ばなかったか?父の耳には老年になっても、この時の助けを求める人々の声が残ったそうでした。
基隆上陸、憧れの地に第一歩を記したのは、1925年5月15日のこと。 |
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