前代表社員長崎真人自分史
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 【第一部】第一話「南の楽土・自由の天地 台湾への第一歩」(
 
 その台湾が、広く知られるようになったのは、室町時代の末期、幕府公認の勘合貿易と並んで、中国・朝鮮の沿岸を荒らしまくった「倭寇」の時代。この時代、日本人は東南アジア一帯に進出して各地に日本人町を作っていましたし、ポルトガルが種子島に鉄砲を伝えたのを初めに、南蛮人・紅毛人の渡来も盛んでありました。そして、日本・朝鮮・中国と東南アジアを結ぶ海上交通の要路として、台湾が浮かび上がってきたのでした。

 近松門左衛門「国姓爺合戦」の鄭成功(明の遺臣・鄭芝龍と平戸の日本娘との間の子)が、台湾を基地としていたオランダの植民者を追い落として、これを支配地・根拠地とし清朝と戦った時代、台湾海峡を渡って多くの漢人が移住し開拓に励みました。
   明治になって、長い鎖国の夢から覚めた日本は、近代化を急ぎ富国強兵策で一挙に帝国主義の道を突き進むことになったのですが、その近代日本が最初の侵略戦争・日清戦争(1895〜6年・明治27〜8年)の獲物として手に入れたのが、台湾だったと言う事は、「まえがき」でも述べました。

 父が、台湾を目指した時期は、初期の武力平定が終わり、全島的な開発も実を結び、植民地経営が完成期に入った段階と言ってよいでしょう。

 一方、日本内地では、米騒動(1918年)、世界恐慌(1920年)、関東大震災(1923年)を経て、大正デモクラシーと言われた民衆運動の高揚期が、治安維持法の成立(1925年)を境に、鬱屈した変動期に入る時期でした。