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父は、新潟の片田舎の城下町(村松藩・三万石)で貧乏士族の家に生まれ、苦学して検定で教員免許をとって4年、当時としては先進的であった自由教育運動を率先し、校長と度々衝突して、毎年のように勤務地を異動させられていました。そんな若い父の情熱を掻きたてたのは、一足先に台湾で教員をしていた親戚の土産話でした。父は、矢も盾もたまらず、祖父を説得し、若い妻と幼子を抱えて渡台する許可を取り付けたのでした。
この時代は、ブラジル移民をはじめ「狭い日本」を脱出して海外に新天地を求める気風が、政府の奨励策もあって、盛んであったと言う背景もありました。しかし、現在の、羽田から空路3時間余で台北空港に着く感じとは全く違い、当時は、唯一船旅で10日余を要する、水杯を交わしていく異郷でありました。
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父は、長男でしたから、祖父がよくその異郷への旅立ちを承諾したものだと不思議な気もしますが、後年判明した事によれば、祖父は、村役場に勤めながら、向学の志を捨てえず、密かに幸徳秋水の「社会主義神髄」を精読していた人柄であったようなので、父の申し出を黙って受け入れ、「渡台の心得」として次のような言葉を書付にして父に与えたと言います。
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