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ずっと後になって理解できた事だが、私が党本部に出てきた丁度この時期、日本の政治情勢はひとつの変わり目を迎えていたのだった。
ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本に、上陸してきた連合国の進駐軍は、当初、軍閥・財閥の解体、戦犯の逮捕等、軍国主義勢力の一掃に力を注ぎ、一方、獄中にあった共産党幹部はじめ政治犯の全員を解放させ、言論・出版・集会・結社の自由を全面的に認めるなど、民主的な潮流を助長する政策を採った事も確かだった。
しかし、既に見るように、2.1ストに中止命令を発し、東宝争議に大弾圧を加える等、初期占領政策には重大な変更が加えられつつあった事も明白であった。 |
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米軍主導のこの占領政策に対する評価が、革命運動の方向を決める上で、基本的に重要な問題であったが、残念ながら当時の党は、まだ明確な方針を持ち得ないでいた。
18年もの長い獄中生活を戦い抜いてきた同志徳田、志賀をはじめとして、出獄してきた同志たちを中心にして、熱烈な活動が再開されて3年余、息つく暇もない夜を日に次ぐ活動で、党は目覚しく大きくなってはいたが、激動する情勢の変化に対応するのに精一杯であったと言える。 |
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この時期までの日本共産党の指導方針の中には、占領軍の性格規定の曖昧さから、情勢を過大に見て、民主革命の達成が近いとの認識の下に、政権に就いた時の国土再建の青写真作りを急ぐと言う方策が採られていた。 |
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