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姉の悠子は、開戦の年の3月台北一高女を卒業し台湾総督府外事部に就職。だが、活発な性格の姉にしては、英文タイプを打ったり、外語の新聞雑誌を整理したりの事務職に満足できなかったのでしょう。間もなく辞任して台北第二師範学校講習科を受験、教職を目指すことになりました。そして、そこで知り合ったのが、黒瀬博。新潟から単身で同校に遊学、同郷だと言う事で我が家にたびたび遊びに来るようになっていました。浅黒い肌、キリリとした眉、誠に男性的な風貌で、感じの良い好青年でした。戦時下のこと、男女が口に出して恋を語ることの許されない時代でしたから、日曜の度に我が家で御馳走してあげるのが最大限の好意の表現だっただろうと思います。 |
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その黒瀬さんが、開戦の翌年昭和17年3月師範卒業と同時に現役召集され、入隊した部隊がほどなく、南方の戦線に向けて基隆から出立すると言うので、姉と母とがお弁当を作って駆けつけ、隊長の特別な配慮で面会を許されて、灯火管制の暗闇の中、埠頭で最後の別れを惜しみました。
それが何と言うことであろうか、しばらく後になって聞かされたことによれば、基隆出港間もなく、港外に待ち構えていた米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈され、瞬時にして帰らぬ人となったとは。 |
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