前代表社員長崎真人自分史
目次へ 前のページへ 次のページへ
 まえがき(
    私の父は、台湾人のための初等教育機関である「公学校」の教員をしていました。日本人が何人も住んでいなかったような田舎の台湾人町で、言葉のわからない台湾人の子供たちに、日本式の教育を施す事に高い使命感を持って、寝食を忘れ身命を賭した努力を重ねたと言って良かったかと思います。

 戦後、新潟に引揚げて以後、父は長年、自分が半生を捧げた台湾の地、交流のあった台湾の人々の事を忘れえず、望郷の念に似た想いを抱き続けながら、しかし、自分がしてきた事が、個人の善意など根っ子から無価値にする、植民地政策・戦争政策の一環を担ったに過ぎなかった事を知れば、取り返しの効かない悔悟の念が交錯し、悶々の日々を送っていました。
   その新潟の片田舎に、思いもかけぬ人物が来訪しました。戦争末期、台北の郊外にあった軍需工場で一緒に働いた事のあった台湾人の男性が、どうやって探し当てたのか驚嘆すべき執念と言ってよいと思いますが、台湾からの渡日がまだ難しかった時期にも拘らず、父に会いたい一心で訪ねて来てくれたのでした。その人の献身的な努力で、台湾時代の教え子の消息が次々に判明。やがて、その教え子たちの招きで、父は30年振りに渡台、涙・涙の熱烈な歓迎を受ける事になったのでした。

 私自身も、あるいはむしろ父以上に、社会思想に染まった身でもあり、台湾を訪ねるには、個人的な感傷だけでなく、政治的な障碍もあったのですが、父の渡台を機に、一挙に雪解けを迎える事になり、かってのクラスメートとも再会し、緊密な交友関係を復活する事になったのでした。