前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第六話「学芸会の主役に初恋?そして失恋!初めて知る階級の差/血に彩られた日本語教育の始まり」(
 
血に彩られた日本語教育の始まり

 日本の領台以前、台湾には「寺小屋教育」とでも言うべき民間の教育機関が各地にあり、資産家の子弟が学んでいました。清国の官吏登用試験「科挙」を目指して勉学に励み、合格する者も少なくはなかったようです。台湾人の教育熱心の気風は、この頃から醸成されていたのでしょう。

 台湾総督府は、1895年一応の平定を見た直後の台北で、早くも台湾人教育に着手しようとしました。しかし、台北市内では戦乱を避けて市外へ避難した者が多く、生徒を集める事が出来ませんでした。

 
 そこで台湾人有力者の進言を容れ、台北市郊外の士林街芝山巌に地元有力者の子弟が学んでいた学舎があり、ここならば地元の協力も得られそうだと言う事で、芝山巌に最初の「国語学校」を開設する事になりました。現在、故宮博物館が建っている所から近い静かな土地柄です。
 当初の生徒は、有力者の子弟6名だけ、間もなく21名に増えましたが、これが悲劇の幕開けでした。

 翌1896年元旦、台湾北部一帯を震駭する抗日武装反乱が起きました。抗日軍は、台北を包囲し、淡水河を渡って市内を目指す勢いでした。この北部蜂起については、第四話でも触れました。